009




 まずは南方を見上げる。
 月のない冬の凍てつくような夜空の中、均整のとれた三連星がくっきりと視認できる。三つ星から目を離さないように視界を広げると、それを四角く囲む光がある。その中でも特に輝いている2つの煌めきのうち、右下がリゲル。左上がペテルギウスだ。
 ペテルギウスから東方へ真っ直ぐ伸ばすとひときわ輝くのがプロキオン。その中間を真っ直ぐ降りた所にあるのが、地球上から見える最も明るい星、シリウスだ。
 オリオン座のペテルギウス。
 こいぬ座のプロキオン。
 おおいぬ座のシリウス。
 これら一等星を頂点として結ばれる奇跡的な正三角形こそ、冬の大三角形である。
 世界で一番美しい光。
 ――――らしい。
 私の脳は、ただの星の光としか認識してくれない。
 あくまで事務的に――スケッチブックに手探りで鉛筆を走らせる。
 プロキオンの上方にある並んだ二連星。ボルックスとカストル。鏡合わせのような双子星。
 その双子から真っ直ぐに線を延ばし――。
「律子さん、冷えますねー」
 ふいに後ろからかけられた声に、星々から視線をそらさずに返事をする。布団のような大きい布がずるずると引きずられる音が聞こえる。毛布にくるまって妖怪みたいになった姿を想像する。少し笑えて、そして呆れた。
「うわー寒い。寒っ。無理無理無理!」
「やかましい」
 ぐぬぬ、と低く唸る彼女は無視する。毛糸の手袋越しでさえ突き刺してくる寒さを意識してしまうではないか。マフラーを巻き直して、口元を埋めた。
「学校の宿題でしたっけ?」
「まぁね。私の家からじゃあんまりよく見えないから」
「私はむしろ家の方がよく見えるかもです」
「星座の観察とか……。小学生かっての」
「いいじゃないですか。小学生でもお婆ちゃんでも、星は星ですよ。綺麗だし、それに綺麗です」
 この娘は真面目で頭も悪くないはずなのに、どこかとぼけたような言葉を口にする。それが魅力なんだろうな、という事はわかる。下世話な話ではあるが、だからこそ売れているんだろうし。私にもそんな可愛げがあればな、とも思う。そうすれば――だなんて。
「…………プロデューサは?」
「まだ下でお仕事してますよ。帰ってもいいよって言ったんですけど。俺は引率者だからーって」
 何が楽しいのか、でへへ、とだらしなく笑った。
「それはあんたもよ」
「はい?」
「なんでここにいるのよ。あんたも凍死一歩手前まで夜空とにらめっこしてこいって宿題出されたの?」
「あはは、違いますよ。何言ってるんですか律子さんってば」
 ……なんか馬鹿を笑わせると笑われたように感じるのはなんでだろう。乾燥して乾きそうになった目を瞬かせた。
「だって楽しそうじゃないですか。律子さんやプロデューサさんとお泊まりだなんて」
「私としてはなんていうか、空気を読んで欲しかったなーっていうか」
「はい? 空気?」
「今日は空気が澄んでて星がよく見えるわーって言ったの」
「あ、はい、そうですね。今にも落ちてきそう」
 手探りでさらさらと筆を動かす。あまりに眩しいシリウスが、私の網膜に焼き付き残像を残す。
 今見えている物を見据えながら手元を見ずに書くことと、あれとこれをちらちらと見比べながら書くことでは、いったいどちらがより真実に近い描写が出来るのだろうか?
 そんな理解の谷間の一歩手前で右往左往するような、右脳的な発想で絵を描くことの出来ない私は、まぁなんとつまらない女なのだろうかというか。そもそも女としていささか問題があるのではないかというか。ひとことでいってしまえば可愛くないなぁ、というか。
 白い空気が再び私と天上との間を遮った。お寒いなぁ。
 毛布の塊が私のすぐ隣にまですりより、もごもごとうごめいた。
「ねぇねぇ律子さん。私おひつじ座なんですけど、どれですか?」
「あー。あそこにみっつ、星が並んでるのわかる?」
「あ、はい」
「そこから線を延ばしていって――」
 指を走らせ、文字通り星の数だけある星から主要な星だけを教え、それを結ばせる。そこに浮かぶのは、半身を踊らせ角を振りかざす筋骨隆々の雄牛に怯えるように蹲る羊だ。
 と、どうやら昔々の人にははっきりと見えたらしいが、左脳的な私には、そこには小さな星が2つ、てんてんと転がっているようにしか見えない。
「――って事なんだけど。見えないわよね?」
 私は肩を竦めた。がしかし、対して彼女はぴょこぴょこと身体を弾ませ、感激の声を上げた。
「わぁ! 可愛い!」
「……可愛い?」
「えぇ! ちっちゃく丸まってて! もこもこしてます!」
「もこもこ、ねぇ」
 改めておひつじ座に目をこらす。――相変わらず、中途半端に明るい星が2つ並んでいるだけだ。
「一応、牡羊ってだけはあって、角が生えてそれなりに体格のいい羊をイメージしてると思うんだけどね。伝説では」
「ふーん? でも可愛いけどなぁ」
 あんたは右脳派ね、と溜息をつき、スケッチブックに星を2つ、書き入れた。
「あ、律子さんは何座なんですか?」
 次は何を書こうかと浮かせたペンが宙でうろうろと所在なさげにさまよう。
「律子さん?」
「……あー」
「はい?」
「…………蟹座」
「………………かに」
「あんた何笑ってんのよ」
「わ、笑ってなんかいませんよ!」
 わたわたと毛布をはためかせ暴れる隣に、やはり私は視線をやることはなく、星を追い続ける。
 別に運命とか奇跡とか、ロマンチックな事象を信じている訳ではない。なにせ私は左脳人間だ。あるがままの事実をシステマティックに解釈する事しかできない人間だ。手元のスケッチブックがどんな悲惨な線を結んでいるかは、予想がつくし、それ故に確認する必要性を感じない。確認なんてしたくないんだ。
 だけど、私もやはり女の子だから。運命も奇跡も、信じてはいないけれど、だけど好きか嫌いで言えば、好きなんだ。
 もしかしたら、この冬空の下、後ろからそっと寄り添ってきて、甘い言葉を――だなんて。
 はぁ、と大きな大きな溜息をつくと、今日一番の白い息が宙に舞った。
「あわわごめんなさいですってば律子さーん……」
 泣きそうな声は私のすぐ側で聞こえた。
「別にアンタに溜息ついたわけじゃないわよ」
「あれですよアレ! かにはその、美味しいと思います!」
「……アンタがそうやって騒げば騒ぐほど全国の7月生まれの人間に喧嘩を売ってるんだって事理解してる?」
 この娘は右脳派というよりもただのバカだなぁ、と理解する。
 そして往々にして、少しくらいバカの方が可愛く見える物なのだ。対して私は頭が良すぎるのだ。全く持って損な人間だ。
「あ、律子さん絵、うまいなぁ。うまいなぁ。凄く上手いですよぉ」
「………………アンタさ」
「は、はい」
「……ま、いいわ。ほら、私もいれなさいよ」
「うひゃぁっ」
 彼女の毛布を引っぺがし、2人一緒にくるまる。コート越しにだけど、自分の物ではない体温を感じて、凄く落ち着く。なんだか笑えてくる。
「うわっ、律子さんほっぺたとかすごく冷たいじゃないですか!」
「そうよ寒いのよ。だからアンタのその無駄に暑苦しい熱には期待してるわ」
「ん? 私褒められました?」
「もちろん」
「あ、そういえば私ホットコーヒー持ってきたんですよ。飲んで下さい」
 結んだ線は目に見えないし、見たくもないけど、他人には見えたりするもので。お世辞でも綺麗だよ、だなんて言われれば、まぁ少しは見てやろうかな、だなんて気にもなったりする。そうしてこうやってありもしない運命やら奇跡を待って寒さに身を震わせるのだ。
 勘違いしないで欲しいのは、私は理解しているのだ。なぜなら私は頭が良いいのだから。
 その上で、の話だ。
「はい、どうぞ」
「ありがと」
 左の脳と右の脳で思考のキャッチボールをして、私は、私たちはすこしずつ前進していくのだ。
「…………あまっ!」