010




 ベッドから起きると、如月千早の頭にはウサギの耳が生えていた。
 そっと撫でてみると、ふわふわして耳と指先の両方がくすぐったかった。

 なるほど、これは夢だ。

 あっさりとそれに気付くと、如月千早は大きく溜息をついた、
 なんて馬鹿らしい夢を。
 こんな夢はさっさと覚ましてしまうに限る。もう一度ベッドに横になろうとして――しかしそこにはもうベッドがなかった。やっかいな夢だ。再度溜息をついた。

 周りを見渡すと、そこは薄い桃色の壁に囲まれた四畳半程の部屋だった。調度品の類は一切ない殺風景な空間で、ついでに床も天上も薄桃色だ。少なくとも自分の趣味ではないな、と如月千早は思った。
 そして鏡の類が一枚もないことに安心した。こんな姿は他人どころか自分でも見たくはない。

 いやしかしなぜこんな夢を――。
 昨日は何か似たような状況の映画でも見ただろうか。
 それともこのようなイメージを与える事件でも起きたのだろうか。

 如月千早は小さく首を振った。
 だめだ、頭がはっきりしない。さすがは夢だ。
 夢なので当たり前のことではあるが、自分の存在がぶれていくような不思議な感覚が身を包んでいる。

 思考するのは止めよう。なんにせよ起きたらどうせ忘れるのだし。と、如月千早は自分を納得させた。

 さて、ならばこの時間――そもそも時間という概念があるのだろうか――ももったいないし、歌の練習でもしよう、と如月千早は決めた。
 例え夢の中でさえ、自分を高めようとする如月千早に誇りを感じつつも。
 結局それをする事以外に如月千早にはなにもないのか。という嘲りとも哀れみともつかない感情を、私は彼女に感じた。

 軽く身体を動かしてから、如月千早は声を出そうと大きく息を吸い込んだ。

「千早ちゃーん?」

 と、そこで可愛らしい声が響いた。

 如月千早が当たりを見回すと、左手の壁の下部に正方形の切れ込みがあることに気付いた。60cm四方のその切れ込みは、明らかに一寸前までにはなかったものだ。
 じっとそれを睨んでいると、その正方形が奥の方へと開いた。どうやら、上辺に蝶番のついた片開きの戸だったらしい。

「千早ちゃーん」

 その戸から、白くてふわふわしたウサギの耳が、二本生えた。
 続いて頭が俯せににょきと出でる。ウサギ耳の根本に可愛らしい赤色のリボンが結んである。
 ……普通に人間の耳はあるのに、もう一組耳が生えているのか。無茶苦茶だな、と如月千早は思った。

 ――うっぬぬっ。

 その頭はこちらへ来ようとしているが、しかし身体が引っかかっているのかなかなか抜け出すことが出来ない。
 如月千早は観念したように、
「なにやってるの、春香」
 と頭に声をかけた。

 頭はこちらを見ようとして、がしかし体勢に無理があるようで床を向いたまま話し始めた。

「千早ちゃん起きてたの? なにやってるのはこっちの台詞だよぉ。もうみんな起きて出てきてるよ。千早ちゃんが寝坊だなんて珍しい事もあるもんだねってみんなで」
 如月千早は呆れたように、しかしなんだか嬉しそうに口元を緩ませた。
「あなたは……夢の中でも騒がしいのね」
「夢? まだ寝ぼけてるの千早ちゃんってば」
 ……ここで荘子の引用をするのはあまりにベタすぎるな、と如月千早は言い返すのをやめておいた。

「まぁどっちでもいいんですけど。早く来てねー。みんなもご主人様も待ってるから」
 じゃあまた後でね、といって、頭は窮屈そうに戸の向こうへ戻っていた。

 如月千早は腕を組み少しだけ考えてからひとつ溜息をついて自分も戸に向かった。
 きっと向こうに行くとなにやら面倒くさいことになるんだろうなという確信に近い予感はしていた。
 がしかし、別にここにいても何もすることはなく、状況は変わらないだろう。
 なにより、夢の中であっても――いや、夢の中であるからこそ、天海春香の言葉を無視するような事はしたくなかった。

 焼きたてのパンみたいに妙に柔らかい薄桃色の床に這い蹲り、戸を向こう側へおし開ける。
 そこは思ったよりも長い通路になっていて、数mはありそうだった。出口の光が眩しく、向こう側に何があるかはよく見えなかった。

 意を決し、匍匐前進をするように光の方へ這っていく。
 ほんの少しの道のりなのに、どうしてかなかなか出口には着かなかった。まるでこちらが10cm進むと、あちらは20cm向こうへ逃げていくような。非常にもどかしい。
 そして、春香があれだけ苦労していた穴を自分があっさりと進めてしまっているのも、これまた夢の所為なんだろうと、私は自分自身を納得させた。


 ○ ○ ○


 外に出ると、あまりの眩しさに如月千早は腕を目の上にかざした。
 むわっとした草いきれに息が詰まる。
 草原だ。
 目が光になれ、辺りを見回すと、そこは一面緑の草原だった。
 後ろを振り返る。そこにはもう戸どころか壁すらなかった。

 ――まぁ、ウサギだからって雪原やウサギ小屋の中に出てくるよりははるかにマシだな、と如月千早は思った。

「千早ちゃーん、こっちこっちー!」

 先ほどと同じ可愛らしい声が聞こえて、前に向き直る。頭に耳が生えた人影が走ってくるのが見える。どうやら4足歩行ではないことに如月千早はひどく安心した。
 これくらいなら許容の範囲内だ。如月千早は微笑んだ。

「千早ちゃーんっ」
「はる……っ!?」

 如月千早の顔が引きつった。

「いやー千早ちゃんがなかなか来ないからまた寝ちゃったのかと思ったよもー」

 天海春香は目の前まで来ると膝に手をついて息を整えた。たまのような汗が首筋から肩、脇の下へと流れる。

「もう一生懸命走って来ちゃったんだけど。よく考えたら千早ちゃんが二度寝なんかする訳ないよね。私じゃあるまいし」

 でへへ、と笑いながら大きくあいた胸元に手うちわで風を送る。きゅっと締まった体幹を包む光沢のある赤い布地が汗の水分で濡れて、より艶めかしく見える。

「って千早ちゃん無視しないでよぉ。突っ込んでよぉ」

 身をよじると、そのかなり際どい所までカットされた股の付け根が捲れる。本人が大きい大きいと気にするヒップだが、今は衣服である筈の網タイツによって何故か素肌よりも官能的に見える。
 如月千早は頬を赤くして目をそらした。

「千早ちゃん?」

 ……もちろん、シューズは超のつくハイヒールだ。

「………………春香」
「ん?」
「その……格好は、なに?」
「格好?」

 天海春香は不思議そうに、自らの真っ赤な衣装を見る。

「だから、その……。な、なんていうの? ば、ばにーがーる、っていうのかしら? それよっ!」

 胸元が大きくあいた肩だしの真っ赤なレオタード。
 腕にはカフス、首元には蝶ネクタイ。
 パンツも真っ赤なあみあみのタイツ。
 10cmはあるであろう深紅のハイヒール。
 そして――自前の大きなふかふかのお耳。
 どっからどうみても。バニーガールだった。

 如月千早は顔を逸らしたまま、腕をぶんぶんと振り回した。普段は冷静な彼女にしては随分と大きなリアクションだった。

「バニーガールって……コレのこと?」
「そうよっ! そ、そ、そそそそんな破廉恥な格好をして屋外を走り回って! あ、あああ貴女には恥じらいとか! 分別とか! ATPといったものがないの!?」
「千早ちゃん、それをいうならTPOじゃないかなぁ」
「どっちでもいいわよそんなの!」

 如月千早は絶叫した。

「なにか変かなぁ?」
 天海春香はその場でくるりとまわった。
 ぴょんぴょんとはねるその仕草はまさにウサギのようで、それを横目で見る如月千早としても、認めたくはないが、あぁ可愛いなぁ、だなんて少しは思ってしまうくらいの威力を持っていてた。
 先ほどからしきりに自分に言い聞かせていた『これは夢だから』。
 が、この突然の左フックによって、ここにきて如月千早はこれが夢であることを完全に忘れ、夢に取り込まれてしまった。

 まぁ、それも仕方ないことで、同情する余地はある、と、私は思った。

「まったくはしたない!」
 首筋まで真っ赤に染めてぷんぷんと怒る如月千早。それを見て、天海春香は不思議そうに首を傾げた。
「そんなにおかしいかなぁ?」
「おかしいわよ!」
 声が裏返った。
「だって、千早ちゃんだって」
「………………は?」

 如月千早は恐る恐る。それはもう、絶望絶壁の深淵を覗き込むように恐る恐る、視線を下ろし、自らの格好を確認した。

「……………………っ」

 なんの間違いかと天を仰ぐ。
 呼吸を整え、改めて今着ている衣装を確認する。

 胸元が大きくあいた肩だしの真っ青なレオタード。
 腕にはカフス、首元には蝶ネクタイ。
 パンツも青のあみあみのタイツ。
 10cmはあるであろう瑠璃色のハイヒール。
 そして――改めて手を自分の頭に伸ばす――自前の大きなふかふかのお耳。
 どっからどうみても。バニーガールだった。

 ――あぁ、マグレガーのおばさん。いますぐ私をパイにして下さい。

 如月千早は再び空を見上げる、思わず天に祈った。
 あはは、と天海春香は笑った。

「あはは、まったくもう千早ちゃんったらー。だいじょぶー?」

 ――それは、私達はアイドルだから、多少は、こう、なんというか、布地がちょっとだけ少ない? 格好をすることがないこともないわけじゃないってほどでもない。
 が、しかし。こんなあからさまにいやらしい格好なんてしたことはない。しない。誰がするもんですかっ!

「まったくもう……ってあぁもうこんな時間! はやくいかなきゃ! ご主人様が待ってるよ!」

 天海春香が胸の谷間から金色の懐中時計を取り出すのをみても、如月千早はもうなんとも思わなかった。

「いこう?」

 天海春香が如月千早の手をとり、にこりと笑った。
 如月千早も疲れたような、引きつった笑みを返した。

「えぇ……。その前に、ひとつだけ聞きたいことがあるのだけど」
「ん? なになに?」
「その……尻尾はどうなってるの?」
「……ふぇっ!?」
 天海春香の顔が一瞬で、着ているバニーガール衣装と同じ色になった。丸くてふわふわの尻尾が意志を持つかのようにふりふりと揺れた。
「そ、そんな千早ちゃんってば、そんな、は、恥ずかしいこと聞かないでよぉ……」
 もじもじとつま先で地面を掘る天海春香。
 如月千早はもう何もかも諦めたような、そんな溜息をついた。


 ○ ○ ○


 2人で手を繋いで歩いている間は実に平和だった。
 天海春香は満面の笑みでいつもの益体もない話をいつまでも続けているし、草原をかける風は気持ちいいし、細い踵が土を刺す感触も心地よい。
 懸案事項である衣装の問題だって、夢の中に取り込まれてしまっては特に不思議に思うこともなく、『あぁ。これは普段着なのだな』といった感じに至極当然の問題として受け入れてしまう。
 いつまでもこのままでもいたいな、と如月千早は夢らしい感想を持った。

「それで、どこまでいくの?」
「どこへでも」
 天海春香が繋いだ手を大きく振った。
「千早ちゃんのいきたい所に」
「私……はここがよくわからないから。春香の好きでいいわ」
「私の……うーん……」
 天海春香が眉毛を八の字にして、顎に手を添え唸りだした。
「畑にニンジンを盗みにいく?」
「お百姓さんに捕まって身ぐるみはがされそうだわ。皮までね」
「じゃあ、お昼寝しようか」
「私は、まだ眠くない」
「じゃあ……うん。ほかのみんなと遊ぼうか! くまさんとか、おさるさんとか」
「私は……」
「うん?」
 2人が立ち止まり、見つめ合う。
「もう少し、2人だけでいたい」
「…………そっか」
 2人はまた前を向いて歩き出した。
 どこまでもどこまでも。
「ねぇ、千早ちゃん?」


 ● ● ●


「ねぇ千早ちゃん?」
 突然後ろから話しかけてきた春香の声を私は無視する。
「ねぇねぇ、この映画つまんなくない?」
 ぽりぽりとポップコーンをかじる音が聞こえる。
「なんか設定が滅茶苦茶だし、話の筋がわからないし」
「……設定や筋が理路整然としている映画に限って、内容がつまらなかったりするものよ」
「というかね、ひとりぼっちでね、ひろーい映画館で、自分が主演のドキュメンタリーを延々と見続けるの。そんな夢は少し寂しくない?」
 にょきっと私の顔の右側から腕が伸びてくる。その手にはテレビのリモコンのような物が握られていて、それが真っ直ぐスクリーンを指している。
「少しって言うか、私的にはとっても寂しいんだけど」

 リモコンのスイッチを押すと、映画のシーンが一瞬で変わった。

 砂埃舞う荒野で、古くさい拳銃を持った如月千早と天海春香が向かい合っている。風と砂埃が舞う以外は何も起こらず、ただカメラだけがぐるぐると彼女達の周りを回る。

「ばきゅーんばきゅーん」
「あなたと私が殺し合うの? 趣味じゃないわ」
「なにもかもが自分の好きなモノで構成されてたら、それは不健康だなって私は思うよ」

 またスイッチが押される。

 銀色の室内。無重力空間で白衣を着た如月千早が逆さまに浮かびながら、なにかしきりにメモをとっていた。彼女の目の前には、緑色の液体に満たされた球状のカプセルがある。その中で、天海春香が全裸でぷかぷかと漂っていた。如月千早が何かを語りかけ、カプセルに手を当てると、天海春香がそこにガラス越しに唇を合わせた。如月千早はなにか困ったように笑い、天海春香は心の底から嬉しそうに瞼をふるわせた。

「いいでしょ、夢なんだから。自分の好きなモノだけで生きても」
「そうかなぁ? そうなのかなぁ?」
「なにか不満?」
「だって本当に千早ちゃんがそう思ってるなら、私がこうやって千早ちゃんの夢の中に出てきたりしないんじゃないかな?」

 スイッチが押される。

 スーツ姿の如月千早が、深夜のバッティングセンターでバットをふっていた。それを後ろから見ている天海春香が野次を送る。都会の夜に似合う、ひどくけばけばしい格好だ。

「……だから、好きなモノだけって言ったでしょ」
 右手を伸ばしてリモコンを奪い取ろうとする。がしかし、煙のようにするりとすり抜ける天海春香の右手。後ろを振り返ると、深紅の布張りの座席の上にポップコーンの容器がひとつ、置かれていた。

「千早ちゃんが見たいのは」
 前を向くと、スクリーンの前に広い舞台ができていた。その上に、天海春香がセーラー服を着て立っていた。
「これ?」

 天海春香がリモコンをこちらにかざす。――いや、リモコンはいつの間にか折りたたみ式の携帯電話に変わっていた。

 その小さな液晶の中で、二匹の白いウサギが際限のない草原を何処までも駆けていた。
 天海春香の背後にある巨大なスクリーンでは、天海春香が8mmの映画フィルムを必死に巻いたり確認したり切り貼りしたりていた。

「千早ちゃんのやりたいこと」
「私……はよくわからないから。春香の好きでいいわ」
 私は力なく首を振った。
「私の……うーん……」
 天海春香が眉毛を八の字にして、顎に手を添え唸りだした。

「……一番やりたいのはね、ニンジンをたべるの。ご主人様が差し出してくれたニンジンを。あーんって大きく口を開けて、食べさせて貰うの」
「……情けなくないの?」
「私はね、飼いウサギだから」
 くるっと春香がその場で回ると、頭に真っ白でふわふわの耳が生えた。格好は、セーラー服のままだった。
「こうやってしか生きていけないし、それに幸せだし」
 腰を振ると、丸い尻尾が揺れた。
「それが、いいなぁ」

 ね、試してみようか?

 天海春香が一歩私に近づく。いつの間にか私もステージの上に立っていた。

「はい、あーん」

 天海春香がもつリモコンは、いつの間にかピンク色のニンジンに変わっていた。

「あ、あーん」

 目を瞑り大きく口を開く。瞼の向こう側で、スクリーンが激しく明滅しているのがわかった。

「あーーん」



 はたと気付いた。

 そうだ。

 この映画には。


「音楽が足りないじゃないの、春香」


◆◆

 大きく口を開けた状態で、私は目を覚ました。
 太陽はまだ出ていない
 うっすらとかいた汗で、四肢にシーツが張り付いて気持ちが悪い。右手を真っ直ぐ天井へ伸ばす。まだ暗くうっすらとしか見えない、その指先を見つめる。開いて、閉じた。手の平と甲に熱い血液が回るのを感じる。
 何か、夢を見ていた気がする
 気分は最低だ。
 自分の主体性があやふやになるような、なかなか精神的によろしくない夢だった。そんな気がする。
 もうその夢のワンカットも記憶の中には残っていなかった。ただ、何か奇妙な感情の残滓だけ心の隅に引っかかっていた。しかし、それも時期に消えるだろう。私はゆっくりと口を閉じ、手をぽすん、と降ろした。
 あぁそうだ。
 寝る前に春香に借りた小説を読んでいたのだ。ベッドの上で読んでいたら、内容があまりにくだらなくて、読みながら寝てしまった。
 内容は確か――そう。春香が好きそうな。くだらない。気恥ずかしくなるような。甘ったるい――。
 ちらりと時計をみる。早い時間ではあるが、遠距離から事務所まで通っている春香ならば既に起きているだろう。ベッド脇に置いてあった必要なとき以外は全く使わない携帯を手に取り、さらに必要なときでさえも使わないメール機能を呼び出す。慣れない手つきで1文字1文字ゆっくりとキーを押す。
『申し訳ないけど、この小説、私には合わないみたい』
 その一文だけをなんとか作成し、何度も読み直す。
 そして送信ボタンを押そうとして――。
 思い直し、もう一文追加する
『でも、もう少し読んでみるわ』
 今度こそ、送信ボタンを押した。
 携帯をベッドの上に放る。
 ベッドから降りて、カーテンと窓を開けた。すっかり冷え込んできた初秋の空気を吸い込み、大きく伸びをした。
 さぁ、少し早いけど、毎日の日課だ。走ってこよう。
 吐いた息は白くなっているが。
 まぁ、これくらいが丁度良い