008




 野良猫を轢いた。
 路肩に車を止め、眉間に指をあてる。
 グローブボックスからゴム手袋を取り出し、車から降りる。
 前方2、3メートルに横たわる躯をヘッドライトが照らす。頭部は半分が潰れ、右の前足はあらぬ方向へ捻れている。暗い薄汚れた灰色の毛並みは、その半分がぬらぬらと血で染まっている。
 呼吸を止め近づき、側に跪く。
 アスファルトと肉体の隙間に両手を差し込み、ゆっくりと持ち上げる。ゴム越しに伝わる力ない肉の感触は、まるで水風船のようで、腐った卵黄みたいな色を視界から外した。
 道の端へ横たえる。よく見ると、耳が半分千切れている。果たして車に当たった所為なのか、元々の野良生活によるものなのかは判別がつかなかった。
 車へ戻ろうと側を離れ、ふと振り返ってみる。光を失った瞳がこちらを見ていた。うっ、とおもわず息を吸ってしまい、獣と血の臭いでむせ返る。
 涙目を袖で拭い、再び躯に近づく。支えが緩くなった頭を逆側へ向ける。
 眼球の片方が零れ落ち、再びこちらを睨み付けた。


 ― ―


 野良猫を轢いた。
 いつも通り手早く処理をして運転席に戻る。
 ゴム手袋を丸めて二重のビニール袋へ突っ込む。ふぅ、と一息をついた。
 ――ねこ?
 後部座席で寝っ転がっている双海亜美が珍しく僕に問いかける。
 ――よく轢くんだ、僕。一月に1回は轢く
 酷いときは一日に3回も轢いたことがある。
 勿論だけど、僕だって轢きたくて轢いてるんじゃない。運転には細心の注意を払っている。だけど、何故かいつも野良猫を轢いてしまう。そういうものだと慣れてしまってはいるが、なんとまぁ気持ちのよろしくない星の下へ生まれてしまったものだ。
 ――ふぅん。呪いみたいだね
 僕が野良猫を轢く呪いにかかっているのか、はたまた野良猫達の方が僕の運転する車に轢かれるという呪いにかかっているのか。
 でも呪いというのは非常に言い得て妙で、何故その表現が今まで出てこなかったのか不思議に思った。
 ――そうだね
 室内に沈黙が戻る。
 いつものことだ。
 出会ってもう半年。子供らしい快活さが売りである双海亜美と、そのプロデューサである僕。その間にあるのはいつだって静寂だ。
 双海亜美が僕の事を嫌悪している訳ではない。僕だって双海亜美のことを嫌っている訳ではない。ただ、そう、絶望的に馬が合わないのだ。
 双海亜美は僕以外の前では子供らしい大胆さで愛らしく振る舞い、周りを明るくさせるその口が止まることはない。
 だが、僕と二人の時は、会話が途切れる。珍しく続いても噛み合わない。目を合わせても、互いに笑顔が浮かばない。きっとこれも呪いみたいなものなんだろう。僕と双海亜美は暗黙の了解でそれを納得していた。
 対して仕事は非常に順調であり、そのことに関して僕と双海亜美は満ち足りていて、つまりそれが関係性の全てである僕と双海亜美には何一つ問題はなかった。
 サイドブレーキを下ろし、ゆっくりと車を発進させた。もう時間も遅い。早く双海亜美を家に届けなければ。
 何気なくルームミラーを覗くと、双海亜美が後方を向いて頭を下げていた。どうやら、手を合わせているようだ。
 ――何やってんだ?
 ――なんでやらなかったの?
 彼女が何を言いたいのかわからず、少しだけ考え、手を合わせなかった事を非難しているのだとようやく気付く。
 僕はあの野良猫へ拝んでいなかったのか。いつもはやっていたはずだ。……いや、どうだろうか。
 慣れた作業を何回もこなしていく内に、いつの間にか“手を合わせる”事が抜け落ちてしまっていたのかもしれない。
 ――忘れてた
 ――さいてー
 ハンドルを放す訳にもいかず、胸の中だけでごめんね、と名も無き野良猫に謝る。
 ――かわいそう
 今まで手を合わせ忘れていたかもしれない野良猫達へもごめんなさい、と謝罪をした。
 命を奪ってしまったことと、謝罪がなかったこと両方に対して。
 ――かわいそう


 ― ―


 野良猫を轢いた。
 いつも通り死体を処理していると、双海亜美が車から降りてきた。
 ――埋めてあげよ
 今まで何処に隠し持っていたのか、新品のスコップを握りしめてそう言った。
 ――埋めるって何処に?
 ――そこの草むらとか
 ――そこは誰かの土地だよ
 墓を作って埋葬してあげるのが一番なのかもしれないけど、でも残念ながらそんな場所はない。役所に連絡して引き取って貰いたい所だけど、こんな時間ではそれも無理だ。僕に出来るのは、これ以上惨めな姿にならないよう、道の端に寄せておくことだけ。
 ――なにそれ! なんかさ! なんていうかさ!
 双海亜美は頬を膨らませ、プラスティックのスコップを振り回した。


 ― ―


 野良猫を轢いた。
 野良猫の7割は越冬出来ずに死んでいく。子猫に至ってはその割合は9割を超える。凍死と餌不足による餓死がその理由の大半だ。
 だとしたら、秋の野良猫と春の野良猫ではその命の重さは違うのだろうか。それを轢いてしまった僕の罪の重さは違うのだろうか。
 例えば夏の夜の蚊の命だとか、タグで管理されている家畜だとか、後部座席で膝を抱えて携帯をいじっている双海亜美だとか。
 “命の重さ”だなんてそんな大それた答えは宗教家が考えれば良いことだ。僕の中ではひとつ結論が出ている。
 つまりそれは――――慣れだ。
 一晩に何匹も飛び回る蚊。毎日毎日口にしている肉。
 一月に1回は轢いてしまう、野良猫。
 回数を経るごとに、慣れてしまうのだ。

 車に小さな衝撃が走り、咄嗟にブレーキを踏む。
 本日二回目の未だ慣れない感触に双海亜美はルームミラー越しに非難するような視線を送ってきた。


 ― ―


 その日双海亜美は上機嫌だった。定位置である後部座席で鼻歌なんて歌っている。
 別の事務所のプロデューサにスカウトされ、移籍することが正式に決定した。
 規模は小さいが優秀だと業界でも評判のよい事務所だ。プロデューサも熱心で、気だての良い人間だ。なにより、双海亜美との相性がよい。二人が話している姿は、本当に楽しそうだった。
 きっと、僕なんかとよりも上手くいくだろう。
 悔しくないのかと言えば嘘になる。なんだかんだでも一年近く共に仕事をしてきたのだ。共にトップに立てる自信が僕にだってある。
 が、頭の中の理性的な自分がそんな馬鹿なと鼻で笑う。一年も経って仕事以外の事柄に関しては一切の信頼関係を築くことが出来なかった奴が何を言うのかと。
 確かに相性は悪いが、彼女に対して親心みたいなものもある。僕なんかとギスギスした日常を送るよりも、どうか新しいプロデューサと楽しい未来を目指して欲しい、と。それが双海亜美の幸せなのだと、自らを納得させた。

 その日は、野良猫は轢かなかった。


 ― ―


 双海亜美と最後の仕事の日。
 僕はいつも通り双海亜美を家まで送った。
 車中は相変わらず僕も双海亜美もほとんど何も喋らず、最後のドライブはそうやって終わった。
 双海亜美を車から降ろし、軽く手を振る。
 ――じゃあな
 彼女は何も言わず、不機嫌そうにこくりと頷いた。
 車を切り返してから、もう一度手を振ろうと窓の外を見た。けど、既に双海亜美の姿はそこになかった。最後までそんなか。寂寥感とも虚脱感とも言い難い感触が全身を支配した。
 アクセルを踏んだ。

 前を横切る何かを視認して、僕は思いっきりブレーキを踏んだ。

 タイヤとアスファルトが擦れる嫌な臭いと音がした。
 転げ落ちるように車から飛び出て、道の脇の茂みへ怒鳴りつけた。
「馬鹿野郎! なにやってんだ亜美!」
 がざがさと茂みが揺れた後、双海亜美がぴょこんと顔を出した。そして、今まで僕には決して見せたことの無いような満面の笑みを浮かべ、両手を突き出した。
 ――にゃあ!
 その手に持ったのは、野良猫。薄汚い灰色で、片方の耳は半分千切れていた。
 ――なんだチミー、ぶっさいくだなー
 うりうり、と双海亜美が頬を寄せると、その不細工な野良猫は、ぶにゃぁ、と不機嫌そうに鳴いて命の恩人である双海亜美の手から抜け出した。そして茂みの中へ飛び込み、何処かへ去っていった。
 それを満足げに見送った双海亜美は、茂みからはい出して、服を軽く払い、にししと笑った。
 彼女に近づき、その頭に乗った葉っぱを払ってやる。
 ――なにやってんだよ
 ――いや、さ、やっぱどうしても気になったからさ。野良猫の呪い
 僕はもう怒る気力もなくて、ただただもう呆れてしまっていた。双海亜美はその場でくるりと回り僕に背を向ける。
 ――あのさ、慣れることと、鈍感になることは違うって、亜美はそう思う
 ――それだけ。じゃね
 双海亜美は駆け足で去っていった。あっという間に見えなくなってしまった後ろ姿に、僕は声をかけることが出来なかった。

 車に戻り、座席に深く腰掛けた。
 オーディオから、次にプロデュースするアイドルのデモCDを抜き、双海亜美のCDを挿入した。僕たちの最終作であり、総集編であり、総決算のCDアルバムだ。
 双海亜美らしいアップテンポの音が流れる。仕事では何百回と聴いた曲だが、個人的に聴くのは初めてだった。
 その曲を聴くだけで、あの最後に双海亜美がどんな表情をしていたか、どんな目をしていたのか、僕にはわかった。
 ――良い歌じゃないか
 それは戦友への悔し紛れの賛辞であり、同時に誇らしい自画自賛でもあった。
 少なくとも、今晩はもう野良猫を轢くことはないだろうと、僕はそんな奇妙な確信を持っていた。