007




 要は距離感だ。

 近くなく/遠くなく/暑くなく/寒くなく/不快感なく/――寂しくもなく。
 〈おはよう〉と言えば《変な奴だなこいつ》だなんて思わず〈おはよう〉と返してくれる。
 〈ハーイ〉と手を挙げられれば〈ハーイ〉と手を振り返す。
 さっと手を差し出したら欧米人みたいにシェイクハンド。……いや、それはやり過ぎか。
 嫌いになったら何も言わず去ってくれればいい/好きになったら何も言わず側にいてくれればいい/どうとも思わないのであればこの距離を保って欲しい。

 要は距離感だ。

 過剰に密になると触れてはいけないモノまで触れてしまう。それは良くない。よろしくないのだ。
 触れてはならないモノ、だなんて作らなければいい話だし、できれば密になれば密になる程――理想としては混ざって解け合ってしまえば、私たちは幸福という名のスープの海で光合成してぷかぷかと浮かび暮らしていけるのだ。食べる必要も無い。
 が、しかし残念ながら、非常に残念ながら、それは理想論であり、哲学の出来損ないだ。私が菌の一種ではなくヒトである以上――あぁ、それこ残念きわまりない。いっそ悲劇といってしまっても構わない――私は社会倫理という細く弱くしかし何十にも編まれ厚くなった糸の上で生きているのだ。
 そいつが許さないのだ。そいつはヒトに秘密を作らせたがるし、そもそも密になること自体を否定するのだ。故によろしくない。
 フヒヒ。滑稽だ。そんな糸はどこにも見えないのに。だというのに、それに気付いてる私でさえこの糸から落ちないよう、慎重に慎重に生きているのだ/そのために生きているのだ/それが生きるということなのだ。
 その点、キノコはなんと完成された存在なのだろうか。溜息さえ出てしまう。胞子、発芽、菌糸、原基、胞子。延々とルーチンを繰り返し、ただそこにあるだけの存在だ。なんと美しいのか。なぜ人間はそうはなれなかったのか。私は何故そうなれないのか。

 要は、距離感だ。
 具合のいい、距離感だ。当たり障りのない、距離感だ。
 だから。
 だから。
 つまり、その、フヒヒ。
 こ、こういう場合は、あ、あ、あれだ。フヒ、ヒ、ヒ。
 ほら、音楽ってのはさ、キノコの胞子みたいにふわふわと空気中に飛散するから、いやでも、あぁいや、いやって訳じゃないけど。だけど、そうやってこっちに触れてくる訳じゃん? だから、接し方がわかんなくなる。

 距離感だ。星輝子と、水本ゆかりの距離感だ。

 ~~

 そのフルートの音色は優しかった/心地よかった/むしゃくしゃした。

 ~~

 水本ゆかりは問いかける。
 歳は? +出身は何処か? +好きな食べ物は? +どうしてアイドルに? +初めて一緒のお仕事だけど頑張ろうね?
 よくもまぁ初対面の相手にそこまで丁寧に熱心に話しかけられるものだ。驚きだ。私としては馬鹿にはしないが、尊敬もしない。
 そして、水本ゆかりにとっては残念なことに、それに完結に答えられるようには出来ていないのだ、私の頭は。

 フヒヒ。

 私が笑うと、水本ゆかりは困ったように愛想笑いをした。
 それだ。私と接しようとするヒトはいつもそれだ。
 理解の出来ない存在を、がしかしどうにか消化しようと、消化するふりをしようとする。その結果が愛想笑いだ。糸の上を踏み外さないように生きる生き物の所作だ。
 嫌いだ。大嫌いだ。私を理解していないその信号が大嫌いだ。
 ……理解をさせない私の口下手も――だ。
 なら私はどうするか? 大声で糾弾するか? /大声で謝罪するか? /大声で泣きわめくか?
 私は

 ~~

 フヒヒ。

 ~~

 同じだ。
 同じなのだ。私も同じ人間なのだ。同じように糸の上で生きる生き物だ。菌類ではないのだ。
 故に想いが伝わらないし、思いを受け止められない。出てくるのは愛想笑い。
 フヒヒ。

 あぁ、寂しくとも何ともないさ。
 まったく、寂しく、ないさ。
 フヒヒ。




 ~~

 音楽は好きですか?

「好きだけど、あなたの音楽はよくわからない」

 ~~

 反射的に答えていた。
 何かを思考する暇も/愛想笑いする暇も/距離感をはかる暇も/何もなかった。
 ただそう答えていた。なぜだろうか。
 きっと、胞子のように空気中に舞っていた水本ゆかりの音楽が、未だ私の感覚器官をちりちりと刺激していたからだ。
 じゃあ何が好きなのかと問いかける水本ゆかりに、私はロックンロールと答えた。
 ――実際には〈ろ、ろ、ろ、ろっくくく、ぉーる〉ってなもんだったが。

 《ロックンロールは、私の周りに張り巡らされた嫌な糸を全て断ち切ってくれるから、だから好きだ。ロックンロールが、私の周りにあった糸を全部叩ききったその瞬間を、私はいまでも鮮明に思い出せる》

 それだけを伝えるのに、たっぷり30分はかかった。つっかえつっかえの回り道をしながら回っているか回っていないかよくわからない私の口だ。
 けれど水本ゆかりはうんうんと頷きながら辛抱強く私の言葉を聞いていた。噛み砕き、消化していった。
 最後まで聞いた水本ゆかりは、素敵だね、と小さく呟いてから私に問いかけた。
《それじゃあ私のフルートは嫌いですか》
《嫌いじゃない》
《じゃあ好きですか?》
《好きじゃない。よくわからない》
 たったこれだけの会話をするのに、またどれだけの時間を要したことか!
 それならば、と水本ゆかりは提案した。
 それならば、これから何回も私の演奏を聴いて貰って、それで好きになって欲しい、と。
 私はそれになんと返事をしただろうか。おそらく例によって要領を得ない返事だったかと思う。だけど、水本ゆかりは満足げに頷いた。
 その表情は、私のことを少しくらいは理解してくれている顔で、だから、私も、同じような表情を頑張って作って、いや、きっと作れてはいなかっただろうけど、そう努力した。
 こんな時にどうすればいいのかわからなくて、散々迷ったあげく、私は手を差し出した。

 ~~

 いい音だった。また聞かせてくれたら、嬉しいな、なんて、

 ~~


 水本ゆかりは眉を八の字にして、困ったような/難しそうな/迷惑そうな/嬉しそうな顔をした。
 そして私は―――


                   ―――要は距離感の問題だ。

 その瞬間、星輝子と水本ゆかりの距離はゼロになった。
 手を/音楽を/空気を/言葉を/キノコを/目には見えない糸を/…………を/介して、私たちの距離はゼロになった。
 い、いや実際にはゼロになった訳ではなくて、その間には汗とか皮膚とか色々なしがらみとか、まぁ境目が、その、あった訳なんだけど。相容れないモノがあって。それはだってヒトだからさ。
 でも、まぁ、心情的にはゼロになった、んだ。

 フヒヒ。