006




 ついた溜息には2つの理由があった。
 1つは、風に吹かれはためいた彼女の金髪が、この冬の街を彩るイルミネーションよりもずっと煌びやかであったから。彼女がそこに立っているだけで、この夜の街がネオンより燦然と輝く星と月の明かりに照らされるのだ。人ではなく、まるで女神のようだと、なんの冗談でもなくそう思った。徒人でしかない自分とは対等にいてはいけない存在なのだと。
「信じられないの」
「ごめんよ。急な仕事がさ」
「言い訳なんて聞きたくないの」
「ごめん」
「なにそれ。もう声も聞きたくない」
 もう1つは、癇癪を起こした彼女をどう宥めればいいのか、それが一向にわからなかったから。彼女はただただヘソを曲げた子供でしか無く、つまり面倒くさかった。互いに思うべき所はあれど、それはそれとして腹の中に溜めてしまえば一応の決着がつく問題を、我慢がならないと吐き出す。溜めておく器官がまだ発達していないのだ。溜めておけば後々において有利に働くというのに、それを理解しながらも実行は出来ないのだ。
「なんで黙ってるの? バカにしてるの?」
「……今日は、君の、誕生日だ」
「今日じゃなくてもう昨日なの!」
 そんな次元の違う2つ非定量的な線形が交わる座標で、マッカートニーの鼻歌交じりに在り続けるのが彼女だ。星井美希なのだ。

「なぁ、悪かったってば。そんな速く歩かないでくれ。危ないから」
「うるさい! ミキはもう何も聞きたくないの!」
 綺麗にイルミネーションで飾られた川沿いの道で、明らかに大きめのコートを羽織った女子中学生――見た目では高校生以上に見えるが――に怒鳴られる大柄な男を見て、道歩く人達は眉を顰めた。もう日付も変わった頃ではあるが、都内の繁華街にほど近いこの道は驚くほど人通りが多い。だというのに彼女が歩く道はモーセの前で割れる海のように彼女を阻むことはない。俺はただでさえ大きい身体を出来るだけ小さくするような心地で人波をすり抜け彼女を追いかける。俺の歩幅は彼女の二倍くらいはあるのに、全く追いつける気配がない。学生時代はラグビー部で『走る仁王像』等と呼ばれていたこの俺のこんな姿を見たら、仲間達はどんな顔をするだろうか。
「聞きたくない聞きたくない聞きたくなーーーいーーーーっ!!」
 綺麗な夜景が見られる川沿いのホテルで誕生日のディナーを。
 彼女が3ヶ月も前からそれをどれだけ楽しみにしていたことか。黙っておけとあれだけ釘を刺したのに、次の日の朝には事務所内の全員がそれを知っていた。社長の詰問を上手く躱した自分もなかなかの者だと思った。
「ハニーはこない! 周りの人達はみんな幸せそうなのにミキは一人っきり! ウェイターさんには気まずそうな顔をされる! ハニーはこない! ぽつんと一人っきりで4時間37分! 夜景はギラギラして全然綺麗じゃない! ご飯もパサパサしてて全然美味しくない! ハニーがこないから! ハニーがこないから!」
 仕事でも着ないような艶やかなワインレッドのフォーマルドレスの裾を振り乱ように、高いハイヒールで音を立て大股で歩く。俺は返す言葉もなかった。けれど、喋るなとは言われたが、いなくなれとは言われていないので、そこだけは安心しながらついて歩く。
「嫌い嫌いだいっ嫌い! だいたい仕事ってなんなの!? ハニーの仕事はミキのプロデュースでしょ!」
 彼女は心の底から怒っていて、そして悪いのは100%俺なのだ。だから俺は大いに反省すべきなのだが、それ以上に嬉しく思ってしまう。普段は何事にもやる気なさげに振る舞う彼女が、こうも感情を露わにして大声を上げるのだ。その原因は、100%俺なのだ。そのことが誇らしくて仕方がない。
「ばかばかばかばかばかばかーーーーっ!」
 大きな楡の街路樹の下で立ち止まり、彼女はこちらを振り向く。あまりに大声で喋りすぎたのか、はたまた俺への怒りがピークに達したのか、大きく肩で息をしている。
「んっ!」
 両手を大きく広げてこちらへ突き出す。彼女が何を望んでいるかはすぐにわかったが、こんな人が多い所でかと躊躇してしまう。しかし彼女はそんな些細な問題は歯牙にもかけず、手を広げたまま、突き刺すようにこちらを見つめる。
 俺は彼女にゆっくりと近づき――あぁ、ようやく近づく事を許されたのだ――両脇に手を差し入れる。彼女の顔を見る。顎を引き、眉根を寄せ、精一杯の不満を表情でアピールしている。
 学生ラグビーであれだけ傍若無人に後輩をしごき続けた俺が、今はこのバカみたいにガタイの良い身体で何をするかといえばこんな事なのか。あぁ――それこそなんと誇らしい事か。
 俺はまた溜息をひとつつく。今度は、自分の覚悟を決めるための溜息だ。

 えい、と、彼女を持ち上げた。
 絹みたいにかるい。
 そのままくるくると回る。
 夜空に、女神が飛んだ。
 広がった金髪は、月に梳かされ、星と絡み合い、夜風と踊る。

「大声出したら少しだけスッキリした」
 普段よりずっと高い位置から俺を見下ろして彼女が笑う。
「ハニーは自分勝手な所がいっぱいあるけどね、いいよ、許してあげる。そこも含めて好きだから」

 笑みを浮かべてはいるが、今にも滴が零れてしまいそうな大きな瞳を見ればわかる。彼女はこれっぽちも許していないのだ。だから、これから俺は償わなければならないのだ。出来れば一生、といきたい所ではあるが、とりあえずは、来年の彼女の誕生日まで。
 そのリベンジマッチまで。
 残り364日と23時間と16分と26秒、25秒、24秒。
 その一瞬一瞬を余すことなく彼女のために捧げようと、俺は心に誓う。

 女神に両手を組んで祈るように。

 子供と指を切り約束するように。

 俺と彼女は世間の目も気にせずに、くるくると回り続けた。